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限界だ。
だがそれがいい。
瞼が痙攣しているのが分かって、可笑しい。
眼前に広がる夜空は、何とも賑やかな事になっていた。
弾幕が花咲いているとか、妖精が飛び回っているとかでは別にない。が、それに近い。
いかれた視界が斑だらけで、一面がちかちかと明滅して見えるのだ。
夜空が眼前に広がっているという事は、俺の身体が仰向けに寝そべっているという事を、とどのつまりは意味している。
夜の森、不思議な飲み屋の長椅子は、ひんやりとして気持ちが良かった。
あとは食道の不快感を忘れられれば。大袈裟に息を吸って吐く。
「――、――♪」
火照った耳に触れるのは、節の付いた声音。
女が腰を掛けるのは長椅子の端、俺の頭のすぐ上だ。
はて、これは料理人ではなかったか。
まあ、お客は俺しかいないようだ。
だとしたら注文は打ち止めか。
「――♪ ――、――」
歌は容赦なく食い込んでくる。
それに伴い、世界の遠心力が増していく。
狂おしい。
無邪気な歌詞のどの言葉を聞いて、俺はその感じを覚えたんだろう。
それを確かめようと気を張る頃には、歌ははるか先に進んでいて、俺はさらなる狂おしさに埋もれてしまっている。
自分が壮絶に高まっていくのを感じる一方で、どこか冷めた感じはあった。
酒、アルコール、化学物質だ。
酒酔いになると、感覚が異常に膨張する。
ささいな事が異様な存在感を持つなど、よくある事だ。
そういう事と違うとすれば、そう。
強いて一つを挙げるなら。
俺はいったいいつ、酒を呑んだ?
「――。――、――、――」
慌てて身体を起こそうとした。
回転が弱まった独楽のように、大きくよろけて長椅子に身体が押し付けられた。
何とか起きよう、もう一度。今度は身体はぴくりとも動かぬ。
「――、――、――」
歌姫の手が、俺の火照った額を撫でる。
硬い爪が触れる。
駄目だ。
もういいか。
取り込まれる。
惹き込まれる。
命の危険に。
ずっとこの身を浸していたい。
夜風の中に拡散していく。
歌が、あるいは俺の全てが。
夜風は冷たく身体を撫でて。
世界と俺とに、境界が戻った。
「ご静聴、ありがとうございました」
急速に、頭が冷える。
身を起こすと、そこはただの暗闇だった。
梟の夜鳴きが物寂しい。
座っているのは、長椅子ではない、ただの倒木。暖簾もカウンターもそこには無い。
耳当たりさっぱりのあの歌も、僅かな余韻すら残していなかった。
隣を見た。
妖怪は妖しさをどこかへ消し去り、ただあどけなく笑っていた。
その華奢な肩と翼越しに、里の灯りが見える。
気が付けば俺は、その肩を強く掴んでいた。
「もう一曲、歌ってくれ、頼む!」